2022年1月5日
農泊で地域活性化を。醤油蔵の再興を軸とした農村の取り組み(前編)
奈良県最古の醤油蔵を再興する際に農泊の視点を入れ、2020年8月に誕生したのが“泊まれる醤油蔵”と謳った「NIPPONIA 田原本 マルト醤油」です。この起ち上げには、醤油蔵の再興だけでなく、地域全体における協力体制の構築や魅力の再発見など、多くの取り組みが行われました。こちらの記事では、醤油蔵再興への経緯や地域における具体的な施策などについて、農泊事業を推進する田原本町川東地域資源活用協議会の会長であり、マルト醤油の18代目当主でもある木村浩幸氏にお話を伺いました。
農泊事業の推進へ向けて地域全体の協力を得る
—奈良県田原本町の土地柄と、川東地域資源活用協議会を起ち上げた経緯を教えてください。
「田原本町は奈良盆地のちょうど中央に位置しています。環濠を何重にも巡らせたとても大きな弥生時代の集落遺跡の唐古・鍵遺跡があります。約2000年前の大集落があったということは、この土地で十分な食料の調達ができたということで、稲作を中心とした農業が非常に盛んだったと考えられています。現代までその流れは変わらず、田原本町は県内でも農業に携わっている人の割合が高く、その中でも川東地域は大和川がつくった肥沃な大地が広がり、三輪そうめんの産地としても知られています。醤油の原料となる良質な大豆と小麦が採れることもあり、約330年前にマルト醤油もこの地に創業しました。こうした昔ながらの食文化の“色”が残っている場所、それが田原本町の川東地域です。
ただ高齢化に伴い、代々大切に受け継がれてきた農地が耕作放棄地となることも増え、2000年前から連綿と続く資源が失われていく危機感が私には募っていました。大切なまちの文化を次世代に残したい、どうしたら魅力を感じて継承してもらえるかと考えて、川東地域資源活用協議会を起ち上げました。メンバーとして地元からは農家さんや自治会の方々と、稲作の神様を祀る村屋神社が入り、さらに外部からは歴史的建築物による地方創生事業を手がけている株式会社NOTEの奈良支社にも参加してもらっています」
—宿泊施設をつくることに対して、周囲はどのような反応だったのでしょうか?
「私見ですが、奈良の人は他地域よりも保守的ではないかと思います。特に人の出入りが少ない農村部のような地域では、価値観を変えるのは非常に難しい。醤油蔵を再興して宿泊施設をつくり、お客様を誘致したいということに、村の自治会の承認を得るまでに3年の月日がかかりました。
1年目に自治会で『醤油蔵元屋敷を復活させ宿泊施設にして地域にお客様を呼び、地域の資源を継承していけるようにしたい。そのために協議会を起ち上げ、村の魅力をここから発信したい』と話したところ、最初は『なにを言うんだろう』と興味津々といった雰囲気だったのですが、最後には『やめてくれ』と反対の声が大多数を占めていきました。
理由はとてもシンプル。『今のこの静かな環境を壊さないでくれ』『このまま静かに暮らさせてくれ』ということでした。お客様の車が狭い集落に乗り入れてきたりするでしょうし、立場を替えてみれば、そういう意見があるのもわかります。私もまずは、これが皆さんの率直な意見だと受け止めました」
田原本町川東地域の農村風景
—大反対にあわれたわけですが、その後どのように自治会を説得されたのでしょうか?
「2年目に自治会長さんに『改めて皆様にまた話をしたいので時間をとってくださいませんか』とお願いしました。『去年あれだけ言われて、今年もまた同じことを言うだなんてえらいことになるんじゃないか? それでもまだ言うつもりなのか?』と言われましたが、『それでも言いたい、これは地域にとっても大切なことだと思う。昨年は“こういうことをしたい”という決意表明をしただけなので、なぜしたいのか、どういった想いなのかまでは伝えきれていません。今回はそれを伝えたいので、時間をとってほしい』とお話ししました。
発言する前は『去年、決したはずのことをまた言うのか』というムード。そこで私はこう訴えました。『私は今この土地にいますが、他の同級生たちは東京・大阪などの都市部に住んでいます。私たちの次の世代に、この土地を守ってくれる人たちはいるのでしょうか。今のこの環境というのは、皆さんが祖先たちから受け継ぎ、この農地を大切に守ってきたからこそあるのであり、そのうえに私たちは暮らしているのだと思います。本当に皆さんの努力の賜物だと思います。ただ、これがもう少ししたら維持できなくなる時期が訪れるのではないでしょうか。それを今このタイミングでなんとかしなければいけないという危機感を私は持っているのです。醤油蔵の復活は私にとっては家業の復活ではありますが、醤油醸造は多くの地域の人たちによって支えられてきたと伝え聞いています。農家さんが作る原材料があって、集落から来る蔵人がいるからこそ、地場産業として成り立っている。今回の醤油蔵の復活は、地域の営みの復活でもある、そう私は思っています。だからこのタイミングでチャレンジさせてほしいのです』と。
しかしそれに対しても『ええように言ってるだけやないか』と、反対の雰囲気の方が大勢を占めていました」
—再度の説得も大変だったようですが、なにがきっかけで風向きが変わったのでしょうか?
「ひとりずっと黙って話を聞いていらした方が、おもむろに口を開かれました。『俺はな、去年、今年とこうして話を聞いていて、身につまされた。俺んとこの息子はもうここに帰って来ないと言っとる。家も田んぼも、ほんまにどうなるんだと思っている。そんな中でこうして家業を復活させて、地域のことを思ってこうしたいと言ってはる。俺らはどうしたって、先にこの世からいなくなる。先立つ俺らがこんな風にチャレンジしようと言っている人を止める権利があるのか、そう俺は今、思てるで』と言ってくださったのです。
会場全体がシーンと静まり、この瞬間に私は、地域が課題を自分事化したと感じました。もちろんその場にいた全員の心に響いたかといえばそうではなかったので、自治会の承認を受けるまでには至りませんでした。
ただここからは変化がありました。『自分はこんなことをやっているけれども、君の活動に生かせるか?』などと声をかけてくださる人がポツポツと現れ始めたのです。そして3年目に、『農泊事業の採択を目指しており、このを活用しながら、多くの人に認知される場所を目指していきます』と訴えて、具体的な事業の内容なども説明しました。ここまで来てやっと会場は温かく見守ってくれる雰囲気となり、ついに自治会から承認を受けるに至りました」
醤油蔵を改修した古民家ホテル「NIPPONIA 田原本 マルト醤油」
地域の方々の協力でたどり着いた、約70年前の醤油製法
—醤油蔵元の再興を考えるきっかけは何だったのでしょうか?
「1689年に創業したマルト醤油ですが、私の祖父の代の1949年頃に、約260年にわたる歴史に幕をおろして閉業しました。理由は第二次世界大戦です。戦争による食糧難で、醤油の原料である大豆や小麦は食糧として食べることが優先され、醤油を作ることが困難になったからです。化学物質を代替として使い操業を続けようとする意見もあったようですが、祖父は、地元の農産物を使い、蔵についた酵母菌で発酵させる天然醸造にこだわり、蔵をたたむことを決意しました。260年という長く続いた家業の火を消すことは相当の覚悟を持った決断だっただろうことは想像に難くありません。
私は幼い頃から祖父と長い時間を過ごしてきましたが、醤油を作っていた話を祖父から一切聞くことはありませんでした。家にどんな歴史があったのかは叔母たちから聞いた話です。
祖父が亡くなり、遺品の整理をしていた時のことです。祖父がとても大切にしていた古い箪笥の引き出しに、マルトのマークが染められた前掛けがきれいにたたんでしまわれているのを見つけました。その佇まいや、私が箪笥を触ると怒られた記憶などから、祖父の想いがひしひしと伝わってきました。
『マルト醤油が地域にとってどのような存在だったのか知りたい』。それがそもそもの事の起こりです。ここから『この地域の良さは何だろう』『自分にできることとは何だろう』と考える日々が始まりました。
マルトのマークが染められた前掛け
—醤油づくりをやめて約70年もの年月が経ち、蔵人もいない状態で醤油蔵の再興はかなり難しかったのではないかと思いますが、ご苦労はどれほどのものだったのでしょうか?
「敷地内にある蔵から1000点以上に及ぶ古文書が見つかりました。しかし、くずし字で書かれた古文書はとてもとても読み解くことができません。古くから人が住む、歴史の長いまちではこうした古文書が見つかることはよくありますが、その大半は廃棄されてしまっています。
これに危機感を抱いたまちが、古文書を読む市民講座を開催していました。そこに5年間通い、なんとか800点ほどの古文書を読むことができました。醤油の製法がどこかに書かれていないか期待していたのですが、残念ながらどこにも見あたりません。醤油の製法は杜氏(とうじ)から蔵人に、現場の作業の中で口伝されるものだったからなのでしょう。
しかし、ただひとつ、蔵人が書いた日記がありました。マメな人だったのでしょう。中には、製法とまではいかないのですが、醸造のヒントになりそうなワードが散見されました。そこで、現在醸造を行っているところを訪ねて解読を試みました。しかし今は使わない言葉のようで、詳細をつかむことはできませんでした。
そこで私は考えました。『醤油を作っていた時代を知る人に話を聞きに行こう』。80〜90代の方々を一人ひとり訪ね、『何でもいいから当時見たことを話して聞かせてください』とお願いして回ったのです。不思議なもので、はるか昔に見たことを昨日のことのように話してくれました。蔵にどんな形の棒を手にした人たちが出入りしていたとか、いろいろなことを教えてくださいました。
こうして2011年に蔵で古文書を見つけてから3年後の2014年に試験醸造をスタートさせることが叶い、翌年には醤油蔵で生き続けていた酵母菌を使った醪(もろみ)を完成させることができました」
祖父の言葉・精神を行動の指針として、地域の魅力を模索し続ける
—さまざまな事柄にねばり強く取り組む木村さんですが、その原動力はどこにあるのでしょうか?
「蔵で古文書が大量に見つかった当時、私は大阪のアパレル会社に勤務していました。友人たちから時々『奈良のおもしろいところに連れて行ってよ』と言われることがありましたが、奈良らしいところといえば、東大寺や奈良公園の鹿などの有名どころしか思い浮かびません。住んでいても意外に奈良の良さを知らないんだなということに気づかされました。
私には、祖父からかねがね言われていた言葉があります。『人の喜ぶことをしてあげなさい』『人にちゃんと感謝しなさい』『大人になったら地域に貢献できることをしなさい』という3つです。醤油のことはまったく口にしなかった祖父でしたが、この3つの事は本当によく言っていたなと思います。その言葉がいつしか私の胸にしっかりと根を下ろしていました。
地元のことをなにも知らない自分が、みんなの喜ぶ地域貢献をするにはどうしたらいいのか。その第一歩として、まずは地域資源の生かし方を学ぶべきではないかと考え、大阪で働きながらではありましたが、観光ビジネス講座を受講することにしました」
—『大人になったら地域に貢献することをしなさい』という言葉に導かれたんですね。
「それだけではなく、『人の喜ぶことをしてあげなさい』『人にちゃんと感謝しなさい』という言葉も含めて、三位一体なのだと思います。この3つの精神がなければ、農泊の起ち上げや、地域を絡めた協議会の設立はとてもできたものではなかったと思いますし、この3つの言葉があったからこそ、3年かかっても自治会の方々に理解を求めようと思えたと言えます。
土地には人それぞれの営みがあり、それが魅力ともなりますが、なにかをするにあたっては、互いの立場に立って物事を考えなければ、何事もうまく進めることはできません。祖父の3つの言葉・精神を行動の指針としながら、他の地域にはないこの地域の魅力を模索し続けました。
そこで気づいたのが、醤油醸造というのは、地域の農家さんたちがいるからこそできるものだということ。祖父が醤油醸造をやめざるを得なかったのは、この地で採れる原材料が手に入らなくなったからです。ということは、醤油蔵を復活させることができれば、この地ならではの農村の持つ魅力を象徴することになるのではないかと思い至ったのです」
(後編)はこちらから
マルト醤油18代目当主 木村浩幸
1976年生まれ、田原本町で生まれ育つ。京都産業大学経営学部卒業後、大阪のアパレル関係会社に勤務。2001年に祖父が亡くなったことをきっかけに、家業であり約70年前に閉業したマルト醤油の再興や地域の発展に思いを巡らすようになる。2011年から観光ビジネス講座を受講するなど勉強と経験を積み重ね、2020年8月に「NIPPONIA 田原本 マルト醤油」を創業する。